1)タンゴの誕生
1860年頃以前には「タンゴ」というものはまだありませんでした。
この頃、ブエノス・アイレスでは世界の様々な国から人々が移民として流入しつつあり、
移民と共に様々な国のダンスも入って来ました。
その中に、ポーランド人の「マズルカ」というダンス、キューバの1825年頃に誕生した「ハバネラ」、
そして勿論、スペインから「サルスエラ」、さらに既にアルゼンチンに存在していた奴隷制度廃止以前に
アフリカの黒人奴隷が持ち込んだ「カンドンベ」などがありました。
(カンドンベはアフリカの太鼓を良く使います。)
1860年頃のブエノス・アイレスの町には政府高官や、金持ちが住んで居てこれらの人々の踊りは
「メヌエット」が殆どで男女が触れることはせず、当時は「ワルツ」でさえ喜ばれませんでした。
一方、移民の人々は家族と共にブエノス・アイレスの町の周りに住んでいました。
昔のガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)が色々な田舎から牛をつれて町の周りにある屠殺場に
持って行きました。ガウチョ達は田舎に帰るまで1,2日停泊しましたので、その間集まる場所を探し、
その場所で歌ってギターを弾く人も居ました。
また、黒人のガウチョは、アフリカのリズムを取り入れて歌いました。
その時に昔からの「ミロンガ」「カンドンベ」などが歌われ、また黒人の集まる場所ではアフリカの踊り
「カンドンベ」が踊られていました。
そのような場所が普通「タンゴ」と呼ばれていたのです。
また、黒人の集まる場所では黒人の王様の戴冠式が行われ、それも「タンゴ」と呼ばれていました。
これが「タンゴ」という言葉の由来です。
ただこの頃には現在のようなタンゴの踊りはありませんでした。
その時代のガウチョ達はブエノス・アイレス以外の田舎に住み、自由に移動しながら暮らしていました。
1813年に総会政府が法律によって黒人の奴隷を解放し、1816年にアルゼンチンは独立を宣言しました。
真の独立はまだ実現していませんでしたが、この頃は土地の所有という制度も無く、ガウチョは
あちこちに自由に住むことができたのです。
しかし後の1850年頃には土地の所有権が作られ、政府はスペインとの独立戦争に参加したものに、
政府は褒美として土地を与えたのです。土地の区分は針金で決められました。
こうしてガウチョは家も建てられなくなり、自由な生活も出来なくなって、仕事を探して牛を売ったり、
料理をしたり、薪を作ったり運んだりして働き始めました。
この頃からこれらの人々は町へ移り、新しい生活を始めたのです。
『ブエノス・アイレスの町の周りだけ』は、ガウチョをガウチョとは呼ばずに「コンパドリート」と
呼びました。彼らは仕事の為にいつもナイフを持っていました。
勿論、その時代には法律はありませんでしたので、誰かが刃物を持っていたら、その目的は
喧嘩では無く、自分の命を守る為でした。
コンパドリートの生活は楽ではありませんでした。
貧しく、仕事はきつく、家は無く、家族も居ない状態でした。
これらの人々はブエノス・アイレスで酒場を探し、「カニア」という強い酒を飲んで
ギターを聴いて過ごし、喧嘩も度々ありました。この時にもナイフは大切な武器でした。
彼らとは別に、移民や下町の人々は港の近くに住み、オリジェーロ(岸の人)と呼ばれました。
さらに船の乗組員なども酒場に来ては、色々な国の音楽を聴いて楽しんでいました。
オリジェーロはポーランドの「マズールカ」を踊り、コンパドリートは「ミロンガ」を踊りました。
その頃は「カンドンベ」「マズールカ」の踊りは男女が抱き合わず離れて踊っていました。
オリジェーロはもっと面白い踊りを探し「マズールカ」「ミロンガ」「カンドンベ」「ハバネラ」の
ステップで踊り、更に男女が抱き合って踊ることを始めました。
しかし、まだその踊りはタンゴと呼ばれず、その後暫くして、「マズールカ」でも「ハバネラ」
でもないこの踊りを、「タンゴ」と呼び始めたのです。
2)タンゴの 曲 の歴史
次に、タンゴの曲についてですが、最初1860年頃のタンゴは「ミロンガ」「ハバネラ」
スペイン南部のアンダルシアのタンゴが混ざり合って出来ました。
後でこの曲は歌われるようにもなりました。この曲のスタイルは「ハバネラ」でキューバから
来たものですが、後にブエノス・アイレスでもハバネラが作られました。
その後、色々な曲が生まれ「タンゴ・クリオージョ」と名付けられました。
1895年頃以前にはまだ現在のタンゴの曲はありませんでしたが、1895年以降本当の
「アルゼンチン タンゴ」が始まったのです。
例えば1895年「エル タラール」、1897年「エル エントリャノ」
1898年「ドン フアン」などがあります。
3)バンドネオンの誕生
バンドネオンは1835年に、ドイツで生まれました。
当時、キリスト教徒が田舎の野外ミサに使う教会と同じオルガンの代用品として作られました。
教会の音楽に使うオルガンと同じ機能を持ち、野外への持ち運びに便利な携帯オルガン
として作られたのが、小さくて軽いバンドネオンだったのです。
しかし、結局、教会のオルガンの代用品としてはそれほど普及しませんでした。
1840年頃のブエノス・アイレスの港へ、ブラジル船の乗組員「バルトーロ」と言う人が
バンドネオンをアルゼンチンに持ち込みました。
1865年~1870年の間のパラグアイ戦争中、夜に様々な大軍隊の兵隊達が、大きなキャンプ
ファイアーの回りに集い、ホセ・サンタ・クルス兵隊がバンドネオンを弾きました。
そして、20世紀初め頃にはタンゴにも用いられるようになったのです。
最初ソロで弾かれましたが、間も無く当時あったトリオ(ギター、バイオリン、フルート)を構成しました。
しかし、バンドネオンは音が強かった為、フルートに代わるようになり、バンドネオンの音は
タンゴの音楽にとても良く合いました。
こうして、バンドネオンはタンゴの音楽に欠かせない楽器となったのです。